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パリコレモデルへ
新井貴子

2012ミス日本グランプリ

INTERVIEW01

INTERVIEW

新井貴子(あらいきこ)

1990年12月8日生まれ。2012ミス日本グランプリ。

大学在学中にミス日本を受賞し、世界的モデルに。

パリコレはじめ海外のファッションショーで、一流メゾンのランウェイを歩く。

ZARAやBALMAIN、ミキモト、SNIDEL Beautyなどのキャンペーンモデルを務めた。

VOGUE JAPAN、ELLE、TBS「情熱大陸」などに出演。

https://www.instagram.com/kikoarai/

目指すは全国制覇!ミス日本の前はスポーツ少女

ミス日本に挑戦する前の貴子さんは、どのような人でしたか?

スポーツに明け暮れていました。中学・高校時代は6年間バレーボールをしていました。今でも、もやもやするときには頭の中でボールを打つ自分を想像するとすっきりします。大学ではアルティメットというフリスビーを使った競技の部活に入りました。身長が高いこともあり、全国優勝を狙おうと熱心に勧誘していただいて。競技に惹かれたのはもちろんのこと、スポーツをする中で優勝経験をしてみたかったので、このチームだったら優勝を経験できるかもしれないと入部を決意しました(貴子さんが所属していた大阪体育大学アルティメット部は当時、全国で一、二を争う強豪校。所属時には準優勝を経験)。

お父様が野球選手ですが、貴子さんがプレーしていたポジションに似ている運動神経が必要ということはありましたか(父・新井宏昌さんは近鉄バッファローズ・南海ホークスで活躍したプロ野球選手。名球会会員)?

周りからはそう言っていただくことが多かったのですが、自分では運動神経が遺伝しているとか似ているという風には感じていませんでした。ただ、スポーツを見るのもするのも好きで。昔から父の影響もあり家族でスポーツにふれる機会が多かったので、無意識にそれが影響してスポーツが好きになったのかなと今となっては思います。

将来に繋がる挑戦を!母と姉の影響でミス日本に出場

貴子さんはなぜミス日本コンテストに出場しようと思われましたか?

母が6年間の癌との闘病生活の末、他界したことが大きなきっかけとなりました。私は当時、大学生だったのですが、部活を続けるか、はたまた別の何かに挑戦しようか迷うようになりました。母が亡くなって、部活動はじめ、それまでの毎日と同じことをしても世界が変わったように見えて。何に対しても力が入らなくなっていた自分を今でも覚えています。そのときに、姉がミス日本に挑戦し結果を残す姿に勇気をもらいました(長女・新井寿枝さんは2011年ミス日本ミス着物)。一番大変だった時期にあきらめずに1人で頑張って、さらに受賞した姉の姿を見たときに、うまく言葉にできないのですが、感銘を受けたというかすごく感動して。それまで私はカメラに撮られることすら苦手で表に立つことは考えられなかったのですが、母が亡くなって部活動を続けるか悩んでいたときに、せっかく母に産んでもらったのだから、将来に繋がる何かをしてみたらと姉に勧められて出場を決意しました。自分が体験したことのないことを目の前にしたときに、久しぶりにワクワク感というか、心の底から何かふつふつとわきあがるものがありました。

もっと積極的に学びたかった!勉強会には全参加

実際にミス日本に出場してみていかがでしたか?

当時の私は怖いものなしというか、最愛の人を亡くした後だからこれ以上失うものはないという状態で、自分にできないことはないという根拠のない自信がありました。今もそのメンタリティは変わっていないかもしれません(笑)。「挑戦するからには1位になりたい!グランプリをとりたい」という気持ちが強く、すべての勉強会*1 に参加しました。当時は実家のある大阪に住んでいたので、勉強会がある度に東京へ移動するのは楽ではなかったけれど、吸収できることはすべてしたくて。とても多くのことを学んだけれど、今となっては、もっと積極的に講師の先生方に質問すれば良かったと思います。当時は、「質問をして、先生に質問を返されて、うまく答えられなかったらどうしよう」とか、まだ何も起きていないのに先を予測して臆病になっていました。なので、今、当時の自分にアドバイスするとしたら、「恐れずに自分の感覚に従って。起きていない事を予測するのではなくて、自分で可能性を狭めずにとにかく挑戦してみて」と言いたいです。

*1 勉強会
ファイナリストが受講できる数ヶ月間の特別教育プログラム。
ミス日本が重視する3つの美(内面の美、外見の美、行動の美)を伸ばす。
能や茶道、華道といった伝統文化を経験するものや、日本画や浮世絵、現代アートについて習うもの、ウォーキングやスピーチの技術を身につけるものまで多岐にわたり、それぞれの分野のトップランナーが講師を担う。

人生で一度きり!受賞した瞬間、頭が真っ白に

ミス日本を受賞した瞬間は覚えていますか?

はい。グランプリの前に他の賞が発表されるのですが、「グランプリか何も受賞しないかがいい」と思うくらい1番への思い入れが強かったです。いざグランプリが発表されるとき、スローモーションがかかっているかのように感じたのを鮮明に覚えています。後にも先にも、あんな感覚は一度きりでした。「エントリーナンバー1番、新井貴子さん!!」とアナウンスが流れたとき、頭が真っ白になってしまって。受賞後に受けた取材のときも、ふわふわした気分で思ってもいないことを口走ってしまいました。例えば、好きな男性のタイプを聞かれて、本来なら「父です」と答えるのに、何も思い浮かばず、当時たまたまテレビで観ていた俳優さんのお名前をあげてしまったり(笑)。

実際にはどんな方がタイプですか?

タイプは特にないのですが、好きになる人は、会話が楽しめる人だったり感覚が合う人。会話が楽しめるということは、何をしても何もしていなくても、とにかく一緒に居て楽しいと思います。恋愛に限らずそういった人と波長があいますが、自分の経験のためにも色々な人と話すように心掛けています。

国を代表しての活動!ミス日本としての責任

ミス日本に選ばれて1年間活動されましたが、印象に残っていることは?

「スポニチフォーラム」というイベントで、オリンピック選手はじめ一流アスリートの方々を前に、国を代表するミス日本という立場で挨拶をしたときは責任を感じました。今年の顔として見られるプレッシャーもありましたし、どのような言葉で何を伝えるか迷いました。観光庁の「Visit Japan」キャンペーンでは、生まれて初めて英語でスピーチしました。記者発表にはカメラがたくさん来ていたのを覚えています。姉(2011ミス日本ミス着物・寿枝さんは東南アジアの孤児を支援するスリーハーツ財団設立者・代表)がカンボジアで企画したイベントに出演したのも印象的でした。自分が想像もしていなかったような暮らしをしている子供たちがいました。やっぱりニュースで見ていても、言葉や映像を通しての情報と肌で感じることは違って。状況をどうにかしようと、労力をかけて、頭を使って、人を動かして、お金を工面するという、自分にはできないことを実現する姉の姿を見て改めて尊敬しました。

尊敬できる仲間ができた!世界も広がった!ミス日本から得たもの

寿枝さんはどういう存在ですか?

尊敬する女性の一人。尊敬する女性は複数人いるけれど、そうなりたい存在ではなくて、一つの物事に対して努力している人として、その姿勢を尊敬しています。だから尊敬する人と同じ道を歩みたいとは思わなくて、「私は私に会った道で同じようにやろう」という感覚です。ミス日本の同期も、見ているとそれぞれの良さや尊敬できるポイントがあって、刺激を受けます。

ミス日本を通して何を得ましたか?

普通に生活していたら経験できないことをさせていただいた*2ので、自分の世界が広がりました。モデルは話さないと思われるかもしれないけれど、個性をアピールするために言葉を発することは絶対に必要だから、ミス日本で培ったものは生かせていると思います。

*2 ミス日本の活動
受賞してから1年、国を代表して活動する。
G7伊勢志摩サミットやCOPをはじめとする国際会議、スポーツの世界大会などのプレゼンターを務めることも多い。
パリ・ユネスコでのファッションショー、ニューヨークでのチャリティーアートイベント、スイスでのイベント、日中青年交流など海外での出演も。
野球好きはプロ野球始球式、ランニング好きはマラソン大会スターター、外国語が得意だと国際的イベントと、受賞者の個性・特技を活かす出演もある。

選ばれなくても自信につながったはず!挑戦する意味

ミス日本に選ばれたことは、世界に挑戦するにあたって自信につながりましたか?

選ばれていなくてもミス日本に挑戦したことは自信につながったと思います。選ばれようが選ばれてなかろうが、そこに挑戦した自分・そこで努力をした自分がいるから、それは絶対に自信につながります。

ミス日本任期後は一流モデルに!海外コレクションで活躍

ミス日本の任期後はパリコレをはじめとする大きなショーのランウェイや、一流メゾンのキャンペーンで大活躍されています。なぜ海外を目指されたのでしょうか?

生まれて初めてのモデルの撮影がかなりモードな撮影で、奇抜なメイクに髪の毛はオールバックにされて、見たことがなかった自分にビビッと衝撃が走りました。そこから本格的にモデルを目指すようになりました。モデルについて調べ始めたら、パリコレが目に入って。目指すことに決めました。パリコレを目標に頑張って、いざ出演したら今度は一回だけ出ることはそんなに大切ではなく、何度も同じデザイナーに呼ばれることや、いくつものビッグメゾンから声がかかることがより重要とわかりました。挑戦したからこそ見える景色があり、達成したからこそできる新たな目標をみつけました。

今でこそ百貨店に入ると貴子さんのミキモトキャンペーンが目に入りますが、最初から順風満帆ではなかったと思います。うまくいかないときは、どのように気持ちの折り合いをつけていましたか?

当時の海外のキャスティングではアジア人差別を受けたこともあって、体型のことでマイナスなことを言われると自己否定してしまいそうになることもありました。色々な経験を経て思うのが、それぞれの個性があって当然だし、それぞれの良さが絶対にあるから、誰に何を言われようが自分を否定することは一つもしなくていいということです。

自分のために努力できるのは自分だけ!世界で活躍する心得

パリコレモデルになる方法は日本ではあまり知られていません。海外コレクションに出演するにあたって、どういったプロセスがあるのですか?

ショーを歩くためには、キャスティングで選ばれる必要があります。1日15件くらい行くのですが、間違えた住所を伝えられていたこともありました。最初はお金もなくてすぐにスマホのデータ容量が足りなくなったので、Wi-Fiのあるカフェをみつけて、エージェントに電話して、と苦労しました。

モデルとして勝ち抜くために心掛けていたことはありますか?

もらったキャスティングにはぜんぶ行くことです。当たり前かもしれませんが、どこにどんなチャンスがあるかわからないから、自分ではつぶしたくなかったです。数が多いと精神的にも肉体的にも疲れるので、途中でやめるモデルもたくさんいました。そういう子たちをみて、「自分は絶対に行こう」と逆に燃えていました。キャスティングに受かったあとも、フィッティングのために何時間も待たされて、急におろされることもあります。私はどうしても出たいデザイナーさんのショーのフィッティングで、衣装を着たら結局、横にいたアジア人モデルに決まったこともありました。悔しくて、帰ってホテルで泣きましたね。姉がヨーロッパとは時差があるのに「いつでも電話してね」とサポートしてくれたので、心の支えになりました。

周りに色々なことを言われると迷うこと、落ち込むこともあると思います。どのような気持ちで取り組んでいましたか?

自分がなりたい体型があるなら、努力をする―努力の過程で自分にあっているものを知ることができるから、何を選ぶにしてもどうなるにしても、自分のためにできることをしなければという気持ちで取り組んでいます。そうすれば、取りたかった仕事が取れなかった時にも、今回は求められていたテーマと自分が合わなかっただけ、と思えるようになり素早く切り替えができました。

可能性は無限大!挑戦し続けたい

スポーツをするなら全国優勝、ミス日本に挑戦するならグランプリ、モデルになるならパリコレと、一位への思い入れが強いように感じます。目標設定の方法を教えてください。

自分の中で、常に何か目標をたててないと進めないから、そのときの自分が頑張れば届く目標設定をしています。絶対に不可能なことは決めなくて。ミス日本も、パリコレを歩くことも、自分が頑張ったらとれるかもしれないという可能性を秘めているものを目指していくのが好きです。それができると次の景色が見えてくる気がします。

最後に、今後の目標を教えてください。

海外で演技に挑戦したいと思っています。モデルを俳優にスカウトする方からお話をいただいて、最近は遠隔でオーディションを受けています。英語で台詞を覚えて、ビデオで撮影して送るということを初めて経験したときに、別の人物になりきって表現するということがとても楽しくて。俳優をすることはモデルの何倍も難しいことなんだろうなと感じていますが、難しいからこそやりがいがありそうだなと。自分で自分の可能性を限定せずに、興味をもったことに積極的に挑戦していく人生にしたいです。

インタビュアーから一言
2011ミス日本グランプリ・ミス日本運営委員会委員 谷中麻里衣(やなかまりえ)
「最後まで読んでいただき、ありがとうございます。私はお姉様の寿枝さんと同期・親友で、貴子さんと同い年で、彼女が受賞した際には舞台上でティアラをつけたので、約10年後にインタビューでき感慨深かったです。貴子さんの活躍をずっと見て応援してきましたが、お仕事に取り組むストイックな姿勢をはじめ様々なお話を伺え、より彼女を好きになりました!この記事は私たちの会話の一部抜粋ですが、皆様にも貴子さんの魅力が伝わっていれば嬉しいです。ミス日本に出場すると、かけがえのない仲間が得られ、素晴らしい経験ができます。もしご応募を検討してこの記事を読まれていたら、ぜひ!出身者同士も交流の機会が多く、仲が良いことがミス日本の特色です。お待ちしています!」
(2021年6月)


2012ミス日本グランプリ